第1話 (ヨーロッパでのエピソード)

ヨーロッパでプロになりたいという夢は、小学校の時ぐらいからかな。
その時から自分はサッカー選手になるんやって勝手に思ってました。
サッカー選手以外、何にもなりたくなかった。 今でもまだまだ全然下手くそですが、ずっと何もとりえがなく、セレクションでもよく落とされてました。 でも心のどっかでいけると思ってた。

話を早送りして2003年、ある代理人から、ヨーロッパ(スイスかフランスかドイツ)のテストを受けないかとゆわれた。
半年間、死に物狂いで練習しまくりましたね。 
そして、チケットも自分で買い、お金も40万ぐらい貯めて6月に行きました。
スイスに泊まるのは高いからフランスに泊まってました。
そして二日後にスイスのチームでテストを受けるはずだったのですが、代理人から電話がなく、自分から電話をすると。”ああ、監督が変わったから、テストは来週になりそうだ”
金はかかるがまあいいかと思いながら、待ってて週末になっても連絡がなく、こっちから電話するとまたなんかいろいろ言い訳をゆわれ、ふざけんなよと思いましたが、言葉が通じなく何もできなくてずっとホテルで待ったりジョギングとか行ってました。フランスってほんとに英語嫌いなんですね。喋れるのに話してくれないからねえ…
1週間もたって何もなくさすがに切れて、電話でもけんかになり毎日のように明日テストがあるからホテルはチェックアウトしといてくれってゆわれてました。
で、朝チェックアウトした後、スーツケース、ボストンバッグ、リュックを持って何をしていたかとゆうと…
どこに行けってゆわれるか分からないなから、駅の近くのバス停で一日中電話を待ってた。公園とかが近くになくてねえ… 日が暮れそうになってもかかってこないとさすがに電話すると、いつも、もう一晩泊まってくれの一言。 そして明日はテストがあるからなどなど… そんなんが更に10日間ぐらい続き…
まあおかげで忍耐は鍛えられたかもね(笑)
さすがにお金がなくなってきたので、悔しかったけど電話で代理人と大喧嘩した後、帰ろうと思ってた。
するとその数分後プルル、プルル。 何やねん!って思いながら出ると。明日からフランス2部リーグのLORIENTでテストがあるからチェックアウトしてくれと…
電車で北西へ14時間の旅。
チケットを買うのに一苦労、そしてどの電車に乗るかを見つけるのに変なフランス語で聞きまくった。
さすがに14時間も違う方向に行っちゃたらやばいからねえ。
そしてLORIENTにやっと着きホテルを取った。
続く…

第2話 (ヨーロッパでのエピソード)

LORIENTに着いてからいろいろとまたトラブルがあり結局テストを受けたのは3日後。
このチームは元フランス代表パトリース.ロコなどやセネガル代表のマリック.ディオップなどがいて、レベルが高かったけど、すんげえ楽しかった。
1週間後契約は残念ながらできなくスイスにまた向かい、ごちゃごちゃがあった結果ヌシャテルザマックスとのテストを得る事ができた。
このチームは80年代と90年代にレアルマドリッドとUEFAカップ準々決勝でホームで2回とも勝利しており、スイスでは歴史のあるチームだった。 向こうに行ってから知った事だが…
1日目から、はっきりいって調子がよかった。とにかく思い通りなプレーができた事が何よりも満足。
そして1週間後、契約を結び、ヨーロッパでの挑戦が始まろうとしていた。 はっきりいって信じられなかったね。そしてその前の日に代理人のところにLORIENTから電話があり、向こうも契約をしたいとゆってきたそうだ。でも結局話し合ってザマックスを選んだ。
いざ始まると簡単にはやらしてくれなかったが、できないことはなかった。監督も俺を試合に積極的に使ってくれて、足首を怪我して1ヶ月間出られなくなるまでは毎試合ほぼ、ベンチからかスタメンで試合には出してもらってました。1番辛っかたんは言葉が通じなかったことかな。あとはプレッシャーと緊張感が違うなって思った。言葉が通じないのは毎日仕事に行って誰とも喋れないようなもん。他の選手が優しくないわけではないが、決して助けてくれるって事はないかもね。そんな世界やからしようがないけど。その国の言葉を習うことが一番の近道。
でもさすがにレスランとか郵便局で荷物を送ろうとした時に、向こうは英語を喋れんのに無視された時は腹立ったけど、やっぱり俺が学ぶべきやね。
はじめの6ヶ月は嫌な事ばっかりやったけど、厳しいところにいて成長できてほんとによかった。そのおかげで今は何に対してもそう簡単にくじけない。
そして俺が怪我をしてる間に、フランスからスポンサーがつき選手を連れてき、俺を放出したいとゆってきた。3年契約をしていたから問題はなかったはずだが、半年で契約の見直しがあったためそれを使ってきた。しかし60%以上の試合に出た場合は残れるはずの契約で、俺は60%以上の試合に出たのにもかかわらず契約をきられた。 まあ、最終的には実力が足りなかった事だが、3年契約は3年契約。
結局2部のチームに行ってからも弁護士を通じて、裁判寸前までになった。その次の半年間は短いようで長かったような気がする。とりあえず頭の中がごちゃごちゃだったのを憶えている。
そして次のシーズン2部リーグのチームに戻って契約をしたが労働ビザが下りなく3ヶ月間練習だけをし、ビザが下りるのを毎日待ってたが…ある日チームの関係者に呼ばれて下りない事が判明した。
最終的には実力が足りなかった事だから、今はまた力を磨かないと。
今度行くときはぜひ成功してみたい。
長くなったけど、最後まで読んでくれた人はありがとうございます。

第3話 (ヨーロッパでのエピソード)

この前友人にこの話をしたら結構受けてたので紹介します。
以前にブログで紹介したと思ってたんですけど、してなかったかも知れません。

ちょっと落ち込んだ時に読んでください。(あと長いので時間がある時に)
あの時はマジ笑われへんかったけど、マジ笑えます。

舞台はスイス。2004年の9月か10月ぐらい…

スイス1部ヌシャテルと3年契約を交わしていたのにも関わらず、僕を含めた外国人選手3人が首になり、僕自身はスイス2部のチームと6月から新シーズンに向けて練習を始めていました。

長い話を短くして、契約上、僕を首にする事は出来ないので弁護士を通して裁判に持っていく話を進めていました。
そんな事もあり、サッカー以外の事で結構ストレスが溜まっていた時でもあります。

新しいシーズンが始まった6月には、労働ビザが未だに下りないというハプニングがあり、毎日、練習に行きながらも、試合はスタンドから観戦という日々が続いた。
この日々は、マジ苦しかった。契約が目の前にあるのに、試合に出られない…
しかし自分の力じゃ何も出来ない。歯を食いしばりながら、スタンドで観戦をしていた時間はあまりにも寂しかった。
練習でも必死に頑張っていた自分に気をつかって声を掛けてくれる監督や選手がいる事が逆に苦しかった。

2004年から外国人枠が5人から3人に減り、去年までEU圏の選手は外国人選手扱いだったのが、それが無くなり、外務省の言い分ではフランス人とかイタリア人を外国人枠じゃなくて取れるのに、なぜ日本人を取るんだ?という事だった。
更に言えば、この2部のチームもヌシャテル州にあり、ヌシャテル関係者がスイス外務省と繋がりが強いので、阻止をしていたとも思われる。
ビザが下りなければ、国を出る事になり、さすがに裁判にはしないだろうという事も計算済みだったのかもしれない。

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標高1000mの場所にあるこの2部のチームは、ヌシャテルの後、
冬休みが終わった1月からずっと半年間、ほとんど雪が降りっぱなしであった。
マイナス20度以下という気温が続き、練習も氷の上でするときがよくあって、メンタル的にもかなり参っていたのが事実。
しかし、そんな気温にもしばらく居ると結構慣れてくるもんで、長袖にジャンパーを羽織るぐらいだけで大丈夫になってくるんや、これがまた不思議な事に。

氷の上での練習が終わって、ふと髪を触ると髪の毛が凍っていた時はさすがにびっくりしましたがね。
サッカーの環境もヌシャテルとは無論かけ離れていて、ほとんどの選手はサッカー以外に本職を持っているので、いつも、アマチュアのように、夜からの練習…
街中を歩いていても、5分ぐらいで全てを回れる、“超”田舎町を歩いていて、一体俺はここで何をしてんねんやろう? と自分に問いかける毎日が続き、人生初めて、自殺する人や、薬に落ちていく人の気持ちが一瞬わかったといっても過言ではない。
ああ、こうやって、落ちていくんやなって…相当、メンタル的に参ってたから…あん時は。

住んだ方はわかると思いますが、欧州では、太陽がほとんど見えない、暗い日々が何ヶ月も続く時がありますが
季節も変わり、やっと太陽が見え出してきた、新しいシーズンの中、その日は訪れた。
この日本人選手は絶対に必要だと外務省にも手紙を送り、色んな政治力を持った人にも頼み続けていてくれた監督から、練習の前に部屋に呼ばれる。

内容はわかっていた。イエスかノーかの問題だけであった。
答えはノーだった…
労働ビザは下りなかった。残念だが、今シーズンは無理やと。

苦しかった毎日に、更にとどめを刺された感じやった。

この時の出来事で自分の人生に笑けるストーリーがまたまた生まれてしまう。

部屋の中ではしばらく沈黙の時間が続いたが、その後パスポートなど、色んな事を処理している間に時間は経ち、いつの間にか練習は終わっていた。そこで自分は何を思ったのか…自分はサッカー選手や。
腐っていても意味がねぇと思い、ボールが入ってるバッグを持ち上げながら、一人で練習場へと向かった。
まあ、ここで終わってれば、ちょっとかっこつけ過ぎやけど、まあ一応がんばって、えらいんちゃうか?ぐらいで済んだかも知れんけど、ここからがストーリーの始まりである。

散々走って、シュートを打ちまくった後、引き揚げて控え室へと戻ると…
ガーン…クラブの人もみんな帰っていて鍵がかかっとるやんけ!
マジ焦った。
家の鍵も財布も携帯ももちろん全部、控え室の中。
そん時、一緒に住んでいたチームメートの家が、グラウンドから走って10分ぐらいのところやったんで、スパイクのまま、ボールをほったらかしにして、コンクリートの上をダアアアアッシュ!
はあはあと息を切らしながら、着いて。ピンポーン!ピンポーン!
と、その時。あ!そうやった、あいつ、今日、車で30分離れたところの彼女のとこに行って泊まってくるって言ってたな!!
その先、更に10分走ると、もう一人のチームメートの家があるのを知っていて、行くと誰も居ねえ!!
そういえば!!こいつもそういえば同じような事言ってたっけ!?
辺りも暗くなってきて、しかも寒くもなってきて、ヤベー、どうしよう!?とか思いながら。
あ!そうや!マッサージ師が控え室の鍵を持ってるし、彼の家には一回晩飯に招待された事があった。
だが、彼の家がどこかとは、はっきりと憶えていなく、坂を上がったり下がったりしながら、かなり走り回ったが結局見つからず…
ふう…とかため息をついている場合じゃないけど、ほんまブルーやったわ。
そこへ、新たなアイディアが!
あ!そういえば…!マッサージ師の仕事場ってグラウンドの近くにあったよな?
ってひとり言を言いながら走っていった。
なぜそこへ行ったかといえば、彼の電話番号がそこに貼ってあったのを思い出したからである。
そして着いて…あったー!!俺って天才やわとか思いながら、公衆電話へと向かう。
そして公衆電話に着いて。うわ!俺ってめっちゃあほやわ。
金が無いのに掛けれるわけないやん!!
そこへ…ん?これってテレフォンカードか?と公衆電話の近くにあったのを試してみると、
そんなにうまくはいくはずはなく、案の定クレジット切れやった。
しかーし、そこで! シドニーとか、日本に国際電話を公衆電話からあるカードを使って掛けていた自分は、これでスイス国内も掛けれるんちゃうん?とか思いながら、まず初めに掛けるフリーダイアルの電話番号を思い出した…
さすがに結構掛けてるだけあって、そこへはとちゃんと掛かったのだが、ここからが問題。そのカードのクレジットが切れると新しいのを買いに行くので、その後に押さなければいけない16桁の暗証番号は毎回違ってくるのだ…
こんな感じやったっけ?って押すと、2回目でなんと!!!繋がった!またまた、俺って天才!とか思いながら、マッサージ師に掛ける。
クレジット切れ寸前で状況をなんとか説明できて、「今はマッサージのお客さんが来ていて手が離せないけど、家の者がすぐグラウンドに向かうよ…」と。
ああ、よかったあ。セーフ…ってな感じで、今度はやっと安心して徒歩でグランドに向かい、無事に控え室を開けに来てもらった。

いやいや、しかし不運な事がまとめてこの一日で起きた感じです。
ほんと笑えなかったですよ…笑

★Nao
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助かった言葉

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今日はスイスで苦しくて、帰るか残るか迷っていた時に助言してくれた友人C君の言葉を紹介したいと思います。

無名でヨーロッパに挑戦して、契約を勝ち取った選手は、その生活が
孤独中の孤独だという事に共感してもらえると思います。

10歳くらい年上のC君は、昔かなり良い選手でドイツ・ブンデスリーガのブレメーンユースと16歳の時にシドニーを発ち契約を交わしました。
まさにDream Come True...
僕もスイスで契約を交わした時は長年のDream Come True...

C君は1年間プレーをして、次の年の契約があったのにも関わらずオーストラリアへ帰国。
その話を聞いたのが僕が20歳ぐらいの時。
僕がC君に言った言葉が 「お前、ほんまあほやなあ。なんで戻ってくるねん?」

それに対してC君はあまり反応をしなかったのを覚えている。
そして僕は23歳でスイス1部リーグで契約。
夢を叶え、給料もよく金はあった。
でも、そこには幸せはなかった。

サッカーや何かに人生全てを賭けている人はこの気持ちがわかるかも知れないですが、その何かがうまくいってない時は他の人生の要素がどんだけ良くても幸せじゃない。
試合に出れなかったりしたら、次の試合までの1日1日が重たい。ほんとに時間が重たい。なんでこんなに重たいの?って。1日が1年間に感じる。
なんで俺を使わねええええ!?ってね…

そして、他にも色々とあり、契約トラブル、下の2部への移籍、怪我。
友達や家族に電話をしても、怒られるか、慰められるか…
どちらでもムカつく理不尽な自分…
これは冗談なしに一瞬自殺という言葉が頭をよぎった。そんな人たちの気持ちなんて全くわからんかったけど、一瞬だけわかった。

電話で喋るのと会って話すのって全然違うねええ。オフシーズンで帰国した時はひたすら喋ってましたよ。嬉しくて。笑

そしてその時アメリカにいたC君の存在を思いだし、電話。
今の状況と、C君がなぜブレーメンから帰ってきたのかがなんとなくわかった事を伝えるとC君は、

「ナオキ、確かに経験した奴にしかわからん。ただ一つだけ言える事がある。俺はもう30を超えたが、今でもふと思う事がある。あの時もし残っていたら、もしかして今は…って。今でも帰国した事を後悔してる。ナオキ、残れるなら最後まで残れ。」

それから9ヶ月間は最後まで頑張りましたよ。
何も楽になったわけではなく、むしろ大変なことばっかりが続きました。
そしてシドニーに帰国してから2年が経ってやっと気づいた。
あの時残って良かったって。
一番厳しい環境やったけど一番成長してた。
だからまたあえて、言葉も何もわからない誰も知ってる人がいないヨーロッパ、ドイツへ旅立った。
スイスでの同じミスを犯さないよう、過ごした。素晴らしい国やった。

最近思うのが僕が求めている選手は日本じゃなくてオーストラリア?…

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